久留米の情報誌SECOND。見かけたら手に取ってあげてください。僕のコラムも載せてもらってます
徒然(とぜん)なか日記
題名:「ブルータスよ お前もか!」
「徒然(とぜん)なか日記」僕のコラムのメインタイトルであるが、皆さん意味は分かるだろうか?
年配の人のほうが解るかもしれない、”徒然ない”久留米地方の方言で、「寂しい」といった意味だ。
久留米と言い切ってしまったが実は、熊本・佐賀・長崎・鹿児島などわりあい広範囲に同じ言葉がある。これは何故だろうか。
日本3大随筆の一つに徒然草(つれづれぐさ)というのがある。
「つれづれなるまゝに、日くらし硯に向かひて、心にうつりいく・・・」というやつだ。
現代文にすると「寂しく、毎日硯に向かって、想いをかいていると・・・」
そう、方言の「徒然(とぜん)なか」はこれと同じ、古語なのである。
昔の言葉は都から離れれば離れるほど残っていくらしい。田舎にいくと、いつの看板だと思うようなオロナミンCとか金鳥のホーロー看板が残っているのと同じことである。
さてここである女子の日記を見てみよう
「気まずいとき
人が呼ばれたのに自分だと思って
答えちゃったとき
とくになんか物もらうときとか
最悪気まずすぎ
人の悪口とかいったのを
小さい子が真似して本人に言っちゃったりすると
マジ死ねる」
うむ、見紛うごとなき女子っぷり。
この女子スタバで話しているのかと思う。
だれの日記でしょうか?
正解は平安時代の随筆、清少納言の枕草子である。
原文は
「はしたなきもの。異人を呼ぶに、われぞとさし出でたる。物などとらするをりはいとど。おのづから人の上など打ち言ひそしりたるに、幼き子どもの聞き取りて、その人のあるに言ひ出でたる。」
マジ死ねるとは言っていないが、まぁ勢いである。
訳なんて8割あってればよいのだ。
枕草子は、中学生のときに
「春はあけぼの。・・」なんて習うのだが。
中学生はそうか、春(場所)は曙か、夏(場所)は貴乃花に頑張ってもらわなければと
その程度のことしか思わない。
僕は文部科学省に物申したい。
例えば最初のが教科書に載っていたらどうだ。
おそらく、我々は清少納言なんて呼び捨てにしない。
その可愛らしい女子っぷりに”清少納言ちゃん”と呼ぶであろう。
だって、清少納言が枕草子を書いたときは30歳くらいである。
現代であれば十分スイーツ女子だ。しかも大都会に住んで、最新ファッションに身をつつんで仕事をやっている。
これを中学のときに習えば、清少納言ちゃんファンが増え、文学部に入学する男子が急増なこと間違いなしなのだが。
そもそも順番が逆なのである、「春はあけぼの。」雅ですなぁ、平安時代ですな、芸術的ですな。
大多数の中学生にそのようなものはいらぬのである。
中学生なんて、この間までカブトムシ取りに行っていたのだから。
最初に興味をもたせ、そのあとで雅さにふれるのがよい。
大学のオジサン先生が「私は枕草子を研究してまして」なんて言うのを聞いたら。
僕の目からは、タレントの中川翔子の”しょこたんブログ”を楽しみにしてるおっさんと同様なのである。
古典といわれるものは、読んでみると意外とそんなものである。
社会人になって、色々読んでみると洋の東西を問わず、歴史の授業で習うものとは違った生き生きとした人間がそこには現れる。ギリシャやローマの本もそうだ。
彼らも人間、同じように悩み、同じように楽しみこの地球上を生きていたんだなと思える。
人間大した奴なんていないだなとそう感じる。2000年ごときで人間なんて変わらないものなのである。
さて最後に我らが清少納言ちゃんの文章を見て終わりにしようと思う。
原文「説経(せきょう)の講師は顔よき。講師の顔を、つとまもらへたるこそ、その説くことの尊さも覚ゆれ。ひが目しつれば、ふと忘るるに、にくげなるは罪や得らむと覚ゆ。」
現代語筆者訳「経典の意味を教えてくれるお坊さんはイケメンがいい。だってイケてると、見とれるから内容のありがたみも分かるってわけ。よそ見すると内容とんじゃうので、やっぱりよそ見しちゃうような不細工は罪だよね」
イケメン・・・・・
清少納言よ お前もか !!